リバイバルジャパン取材日誌
伝道すること、愛すること
福音派やペンテコステ派の教会の多くは、「伝道」を最重要ミッションとして、一人でも多くの魂が救われるためにあらゆる手を尽くす。そしてまずは人集め、ということで、「英会話」をやったり、「ゴスペル」をやったり、「コンサート」をしたりする。まずは教会に足を踏み入れてもらう、という心から。
昔は「福音伝道集会」と銘打って、様々な前振りなく福音を前面に出していたが、最近は接点を持つことを重視し、福音を語ることは、後で後で、となる。また語っても付け足しのようになっている場合が多い。
一方で、結婚式において「これぞ福音を語るチャンス!」とばかりに50分ぐらい説教をする牧師さんがいるが、出席者の身になってほしい。そこは、新郎新婦の結婚とそのお祝いが主目的であって、伝道が第一の目的ではないはずだ。
教会の活動のあらゆる場面に、福音を語る側と語られる側の思惑(目的)が一致していないことが多々ある。語る側は「なんとか伝道を」と思い、語られる側は「わたし英会話を習いに来たんだけど…」「ゴスペルを歌いに来たんだけど…」と思っている。
最初から福音を聞きたいと思っている人などほぼいない、という前提が教会側にあり、前振り(悪く言えばエサ撒き)をして人を集める。本音は伝道にあり、英会話やゴスペルは人集めのため、という構図。しかしこれは、集まってくる側からすると、「なんだ、伝道したかったのか。最初から言ってよ」ということになる。既に了解済みだと、何の問題もないと思うが…。
以前、あることで知り合った男性から喫茶店に呼び出されたことがある。「久しぶりに会って話がしたいから」と言われて。そして店に着き、彼としばらく話していると、何人かの男性が偶然を装って話に加わってきた。なんと、浄水器を買わないか、という話になった! うまく乗せられたことが分かって、「最初から言えよ。」と腹が立ち、席も立った。無理をしてつくった時間が、他のことに使われた。
ある異端と言われるグループも、本心を明かさずにビデオセンターに誘い、本心を明かした後は、「伝道するために、まず家族を愛しなさい」とよく言っていた。しかし正統と言われる教会も、これとほぼ同じことを行っているのではないか。
「愛すること」は、目的そのものである。結果は主に委ねるしかない。「伝道」も、愛から発する一つの行いだ。「伝道のために愛する」のは、ベクトルが逆である。
英会話も、ゴスペルも、コンサートも、そのこと自体が相手を愛するものであればいい。本気で英語を教え、本気でゴスペルを教え、彼らのスキルアップと心の解放を手伝う。コンサートも、その音楽自体で聴衆に仕える。クリスチャンアーティストは客寄せパンダではない。説教者と同じ価値を持つ、キリストの体の一部である。
なんであれ、相手が「誘導されている」と感じるような伝道を再考しなければならないと思うのだ。もちろん、より巧妙にせよと言っているのではない。(ビジネスの世界では、それを巧妙に行っている。)
結局のところ、私たちは「福音」の素晴らしさを実感しておらず、語る言葉もなく、いつの間にか人間関係で人々を教会に取り込もうとしているのではないか。いつの間にか教会に来て、いつの間にか奉仕をするようになって、「じゃ、そろそろ」と言われて洗礼を受けるパターン。語ることも愛することも弱くなり、「なんとなく」が蔓延する教会は、ぬるくよどんだ池である。そして私も、その池の住人である。
主よ、憐れみ給え。
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