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お金と信仰

第1回 職業と神の召し
立川福音自由教会牧師 高橋秀典

北海道大学経済学部卒業(在学中、米国に交換留学し、信仰に導かれる)。
野村証券に10年間勤務(社費留学でドイツ・ケルン大学金融ゼミナール修了)。
現在、立川福音自由教会牧師(23年目)。

お金と信仰

はじめに

お金と信仰との関係は微妙です。神を信じればお金持ちになれるという短絡的なご利益信仰は危ないですが、でも反対に、信仰者はお金のことを考える必要はないという発想は、もっと危険です。なぜなら、お金の計算ができない人は、どこかで必ず人に迷惑をかけるからです。

またそれとは反対に、お金のことを心の中で意識し過ぎる結果として、「私はお金のことなど気にしません」と敢えて公言する人がいます。パリサイ人は律儀な道徳家と見られていましたが、イエスが、不正の富にも忠実であるようにと不思議なことを語ったとき、それをあざ笑いました。聖書は彼らのことを「金の好きなパリサイ人たち」(ルカ16・14)と呼んでいます。お金が好きな人に限ってお金の話を軽蔑することもあるからです。しかしイエスは、その誘惑から自由だったからこそ、驚くほど頻繁にお金を題材とした喩え話をされました。

お金が偶像になるのは、それが私たちの日々の生活にとって何よりも大切であるというしるしでもあります。そのことを覚え、しばらく「お金と信仰」に関して、聖書と経済学の両面に目を向けながら連載記事を書かせていただきたいと思います。

「神の召し」を求めて

私は大学卒業後の十年間、野村證券に勤務していました。信仰に導かれたのは学生時代でしたので、真剣に祈りつつ就職先を決めましたが、就職して三日目に、「主のみこころを読み違えてしまった…」という深い後悔に苛まれました。他の優良企業の内定を受けながらも、国際金融の最先端で働けると思って同社を選びましたが、最初は札幌支店に配属され、来る日も来る日も新規の顧客開拓で苦労しました。ある地元の会社の社長からは、「北大を卒業して株屋に入るなんて、馬鹿じゃないの」とまじまじと言われたことがあります。日々の仕事の中でも、証券業に対する社会的評価の低さに唖然とさせられることばかりでした。

その後、ドイツへの社費留学への道が開かれ、証券市場の比較研究をしながら、日本の証券市場が経済成長に大きな貢献をしていることに気づかされ、仕事に対する誇りを持つことができるようになりました。

そしてフランクフルト支社での勤務時代、ドイツの自由教会の礼拝に集いつつ日本人向けの聖書の学び会を開くようになり、改めて自分にとっての神からの召命がどこにあるかを真剣に考えるようになりました。宗教改革者マルティン・ルターは、「職業」(ベルーフ)という言葉を新しく作り、そこに神の召命(ベルーフング)という意味を込めました。そのことを思いながら、自分への神からの召しは、上がるか下がるか分からない株式投資を勧める仕事よりも、永遠のいのちの喜びを宣べ伝える伝道にある、ということを示されました。ただ、会社から留学をさせてもらった関係で、主の導きを確信した後、三年間近くフランクフルト支社で働き続けました。

しかしそれを通して、神の召しは、職業の選択以前に、今ここでの働き方にあるということに気づかされました。辞めたいのに辞めさせてもらえないという事情ですから、上司にも「私はこんなふうに仕事をしたい」と堂々と言えるようになりました。私にとっての真の上司はイエス様であると思えたからです。そして、このような広い意味での主の召しの中で自分の仕事を見直した時、入社以来、初めて仕事を楽しむことができるようになりました。その後、伝道者として生きながらも、自分の勤めていた会社のことを感謝し、誇りに思える面もあります。そして、証券市場が経済にとって非常に大切な意味を持っていることを疑うことはありません。

職業を神の召しととらえることは本当に大切ですが、それよりも大切なのは、今置かれている場で主に仕えることです。今の仕事が主の召しかどうかを問うことよりも、主は、私たちの“仕事の仕方”を見ておられることを覚えるべきなのです。

お金が集まる理由

今から百年余り前にマックス・ウェーバーというドイツの社会学者が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本を著し、ルターやカルヴァンに始まった聖書信仰を受け入れた地方や国々において近代資本主義の発展が際立っていたということを明らかにしました。

カトリック的な価値観の中では、「主の召し」ということを聖職者になることや修道院に入ることに限定して使い、通常の仕事を世的なこととして軽く見る傾向がありました。その結果、ヨーロッパ南部のカトリック教徒の中には、「うまいものを食べて暮らしたいが、それができねば、いっそのこと寝て暮らそう」という発想があったと言われます。それに対して、北部のプロテスタント諸国では、世俗の楽しみのためにお金を儲けるのではなく、神の栄光のために禁欲的に仕事に励むという職業倫理が生まれ、結果的に資本が蓄積されるようになったという趣旨のことが記されています。現在のユーロ危機の問題の根は深いのです。

しかも、お金はそれ自体に繁殖力と結実力があり、その使い方の上手な人、または信用力のある人のもとに集まる傾向があります。約束を守ることができない人の所には、お金は集まってきません。初期の資本主義においては、強欲な人であるよりは誠実な人がお金持ちになることができたのかもしれません。少なくとも信頼されない人は、他の人のお金を預かることも、仕事を任せてもらうこともできません。近代資本主義の発展においては職業倫理の形成が寄与していたとも言えましょう。

たとえば、日本において株取引はあまり尊敬されませんが、少なくとも私が十年間その職場にいながら、録音もない電話の約束が反故にされた記憶はありません。ある株式を買っていただいた直後に株価が下がっても、約束通りのお金が期日には振り込まれました。口約束を守ることができないような人は、そもそも証券市場への参加資格があるとは見てもらえませんでした。

ところが、私は神学校に入って、約束を守れない人が多いことに驚きました(ただし、それはレポートの提出期限を守ることができないという意味に過ぎませんが…)。それでいて社会批判だけは皆、一人前にできていました。ふと、「自分たちキリスト者が貧しいのは、社会が悪いからと言うより、信用力がないことの証しかもしれない」という謙遜さも必要ではないかと思わされました。

仕事は尊いもの

なお、マックス・ウェーバーはドイツ人のせいか、英米のピューリタン信者たちに批判的な記述もあります。彼らは神の選びを強調しながらも、同時に外面的な儀式による救いの保障を否定した結果、ますます神の厳しい眼差しを意識し、自分の日々の行動を過度に吟味するように駆り立てられたというのです。

しかし、真の意味での神の選びを確信する者は、「私の救いは保障されたから、気ままに生きても良い」などと思うことはなく、また反対に「真面目に働くことができない者は滅びに予定されている」などと恐怖心に駆り立てられることもなく、自分の仕事を感謝を持って見ることができるのではないでしょうか。

パウロは地に足のついた歩みをしていないコリントの信者たちに向かって、「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか」(?コリント13・5)と言いました。

キリスト信仰に立っている者は、自分の頼りなさを正直に認めながらも、キリストの力によって誠実さを全うすることができます。その人は、長い目で見ると、人の信頼を勝ち得ることができるはずです。神はこの世にある様々な矛盾を力づくで一挙に解決する代わりに、キリスト者を通して社会の内側から時間をかけて徐々に変えようとしておられます。その結果、しばしばこの世の矛盾は放置されたままに見えますし、いつでも、どの仕事にも、理想とは程遠い状況にあるということも避け難い事実です。

しかし、反社会的な仕事でない限り、すべての仕事は尊いものです。証券市場には人間の欲望が渦巻いていますが、それも有限な資源を効率的に分配するための必要な仕組みです。かつて流行った国家の計画経済は、どこにおいても破綻を来たしました。ソ連の崩壊や北朝鮮の悲惨はそれを何よりも示しています。私たちは、お金や仕事の問題を、信仰の目から優しく見直す必要があるのです。

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