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シリーズ

他者からも学ぶ 神学交歓

リバイバル聖書神学校校長
山?ランサム 和彦


このシリーズでは、福音主義の中における様々な神学と聖書解釈を主張していただく。自らの立場とは違う聖書解釈を知ることで、クリスチャンの相互理解を深めることが目的だ。

他者からも学ぶ 神学交歓

神の物語を生きる―聖書のナラティブと神学
はじめに―ナラティブ(物語)の力

人は誰かに福音を伝える時、どのような方法を用いるだろうか? キリスト教の真理を論証した本や論文を手渡したり、論理的な議論を用いて相手を説得しようとする人もいるだろう。しかし多くの人はむしろ、自分がいかにイエス・キリストに出会って救われたかという証詞を物語る方を好むように思われる。宣教においては理性的な議論も大切であり、弁証学という分野もある。しかし、必ずしも論理が人の心を捉えるとは限らない。「議論に勝って魂を失う」こともある。けれども、他の誰でもないこの「私」の救いの物語は、一般的な「キリスト教の真理」よりも説得力を持って人の心に迫ってくることがある。物語には力がある。

聖書の中にはたくさんの物語が登場する。主イエスも「たとえによって多くのことを教えられた。」(マルコ4・2)。ここで主の「教え」がたとえという「物語」の形でなされているのは興味深い。また、使徒パウロがコリントのクリスチャンたちに「福音」を伝えた時、彼は抽象的な哲学的真理を説いたのではなく、歴史の中で死んでよみがえられ、人々に現れ、パウロ自身にも現れたキリストの「物語」を語ったのである(第一コリント15・1―10)。そしてパウロはこの福音の物語は人を救うことができるという(2節)。物語には力があるのだ。

世の中には「物語」が溢れている。小説やテレビドラマ、映画、演劇などばかりではない。「物語」というと「フィクション(虚構)」というイメージを持つかも知れないが、歴史記述のようなものも物語と言える。本稿では「フィクション」というイメージを避けるためにも、「ナラティブnarrative」という表現を使用することにする。聖書学用語としてのナラティブは、何らかのプロット(筋立て)に従って展開していく一連の出来事を記述したものをいう。そこには始まりと終わりがあり、その間に物語られる一連の出来事は、互いに何らかの意味のあるつながりを持っているのである。

聖書ナラティブの復権

ナラティブは、聖書の中で重要な位置を占めている。聖書に含まれる文書のジャンル(文学類型)は、手紙・詩・ナラティブに大別できるが、その中でもナラティブは量的にも最も大きな割合を占める重要なジャンルである。旧約聖書の多くはナラティブによって成り立っており、新約聖書でも福音書、使徒の働き、黙示録の大部分はナラティブの形式で記されている。

このように重要な聖書のナラティブであるが、聖書解釈の歴史の中で、その重要性がいつでも認識されてきたわけではない。近代になって批判的聖書学の興隆により、聖書の歴史記述の史実性が疑問視されるようになってきた。それに伴い、聖書のナラティブそのものよりも、その背後の歴史的事件や原始キリスト教会の宗教思想の再構成に関心が集まるようになる。ハンス・フライの言う「聖書ナラティブのかげり」である。そのような中で、聖書のテクストの最終形ではなく、そこに至るまでの過程(どのような歴史的事件があり、それが目撃者の証言を通してどのように伝承され、最終的に聖書記者によって書き記されるようになったのか)に注目が集まった。様式史批評や編集史批評といった批判的聖書学のアプローチはみな、このような「テクストの成立過程」、言い換えれば「テクストの背後にある世界」に注目した営みである。

これは何もリベラルな聖書学だけに限った現象ではない。保守的な陣営においても、聖書に書かれていることが確かに実際に起こった歴史的事実である、ということを証明することに力が注がれてきた。つまり、保守派もリベラルも、関心は聖書のテクストそのものではなく、その背後の世界にあったのである。しかし、聖書のテクストを、その時代の歴史やそこに生きた人々の生活や思想を知るための「窓」としか考えないのは誤りである。

プロテスタント保守派はまた、聖書に対する独特の見方を持っていた。つまり、聖書は何よりもまず神からの命題的な啓示である、という考え方である(Grenz & Franke)。命題とは、ある判断を言語的に表現したもので、たとえば「神は愛である」は命題である。この見方によると、聖書とは第一義的には「宗教的な教えの書」であり、「神は世界を創造された」「イエス・キリストは救い主である」といった命題がたくさん含まれている書物ということになる。ところが、聖書自体にはこれらの命題が神学書のように整然と論理的に並べられているわけではない。そこで、詩やナラティブといった様々なジャンルで記された聖書の記述に含まれる命題的真理を抽出し、それを体系的にまとめ上げる作業が必要になってくる。これが組織神学である。

もちろん、聖書には重要な命題的真理が含まれていることに疑いはないし、組織神学の意義を否定しようとしているわけでもない。聖書にはナラティブ以外にも、知恵や賛美といった多様なジャンルの文書が収められていることも重要である(リクール)。けれども、聖書ナラティブを基本的に命題的真理を引き出すための素材としか見ないアプローチには、重大な落とし穴が潜んでいる。もし、組織神学の構築が聖書を読む最終目標だとしたらどうなるだろうか。いつの日か、緻密な組織神学の大系が完成した暁には、聖書のナラティブはもう不要になってしまうのだろうか。栄養のある果汁を搾り尽くした後の果物の絞り滓のように、後に残ったナラティブの抜け殻は投げ捨ててしまっても良いのだろうか。答えは否である。

ナラティブは命題の集合に還元することはできない。たとえば、福音書は「神は愛である」という命題を主イエスの地上生涯を通して表現した書である、と言えるかもしれないが、福音書のナラティブは単なる命題の羅列では伝え切ることのできない豊かなメッセージを持っている。だからナラティブを説明してみても、その効果を十分堪能することはできない。ナラティブはそのまま読み、味わい、追体験すべきものなのである。このように、「聖書はどのような歴史にも適用する普遍的規則や規範の集合と考えるより、特別な出来事をリアルに伝える物語」(東方)である。聖書から教理の体系を構築する試みは重要で有益な営みであるが、それは決して一度きりで完結するものではなく、常に聖書のナラティブに立ち戻りながら、時代の変化にも合わせて常に新しく創り上げられていかなければならないものである。

このように、近代以後のキリスト教において聖書ナラティブは軽視される傾向があったが、二十世紀になって欧米でも聖書ナラティブを復権する動きがあり、カール・バルトやH・リチャード・ニーバーといった神学者のみならず、哲学や倫理学、文芸批評といった多様な分野も巻き込みながら一つの大きな潮流となっていった。その後ジョージ・リンドベックやハンス・フライらイェール大学の神学者によるいわゆるポストリベラル神学においても、聖書ナラティブは重要視された。近年になっても、N・T・ライトやリチャード・ヘイズといった聖書学者、また筆者も教えを受けたケヴィン・ヴァンフーザーのような神学者の研究において、聖書のナラティブは重要な役割を果たし続けている。

聖書解釈のナラティブ的アプローチ

聖書学の分野においては、ナラティブ(物語)批評と呼ばれるアプローチが注目を集めている。ナラティブ批評はテクストの最終形を重視する。これは聖書テクストの成立過程を重視する歴史批評的アプローチとは異なる読み方である。また、ナラティブ批評はテクストの全体を重視する。マタイの福音書のエピソードは、それだけで断片的に理解されるのではなく、福音書のストーリー全体の流れの中で読まれなければならない(ルツ)。

ナラティブを読む時には、プロットがどのように展開していくかに注意しなければならない。通常ナラティブのプロットは対立とその解消を通して展開していく。たとえば福音書のナラティブでは、神の救いの計画が人間(と悪魔)からの抵抗に遭い、その対立は十字架上の主イエスの死においてクライマックスに達するが、この対立は、神が主イエスをよみがえらせたことによって解消される。福音書の読者はナラティブを読み進めていくときに、神と人間のドラマを追体験することができる。この点が、単に命題的な教理を学ぶのと大きく違うところである。

そして、作者が「何を」語っているかだけでなく、「どのように」語っているか(話法)にも注目する必要がある。ナラティブには多種多様な文学的技法が用いられるが、一つだけ例を挙げると、アイロニーと呼ばれる技法がある。これは出来事の表面で起こっていることと、実際の現実との間にギャップがある状況のことである。ナラティブ中の当事者はそのギャップには気づかないが、作者と読者はギャップがあることを知っている。十字架につけられた主イエスの頭上には、「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書きが掲げられていた(マタイ27・37)。ここには、ユダヤ人の王(と自称する人間)がこのような悲惨な死に方をしているという人々の理解と、それとは裏腹に主イエスは本当にユダヤ人の王であり(マタイ2・2参照)、逆に十字架にかかることによって真の王であることを証しする、という二重のアイロニーが見られる。これはほんの一例に過ぎないが、ナラティブに隠された様々な文学的技法を読み解いていくことにより、より深く豊かな聖書の理解が与えられてくるのである。

ナラティブ批評では、「テキストの背後の世界」をいわば「いったん括弧にくくって」考えるために、リベラルと保守派の間の学問的対話が可能になるという利点がある。例えば福音書における主イエスの奇跡物語をナラティブ批評的に分析する際には、そのような奇跡が実際に起こったことを信じる者も信じない者も、そのナラティブの中で何が起こっているのか、作者は読者に何を伝えようとしているのか、ということに関しては、同じ土俵の上で議論することができるのである。

一方、このようなナラティブ批評のアプローチに対して、「歴史を軽視している」という批判が浴びせられることがある。これには一面の真理が含まれている。そもそも聖書のメッセージは、歴史の中で神がなされた救いの御業に関するものであり、書かれている出来事の史実性という側面を無視しては、聖書の正しい理解はあり得ない。従って、聖書のナラティブを単なる小説と同じように読むということは行き過ぎである。しかし、聖書ナラティブの史実性を追求することと、ナラティブの文学的な側面を分析することは決して「あれか、これか」の二者択一の問題ではなく、両立可能なものである(Powell)。福音的な信仰に立つクリスチャンは、聖書の史実性を尊重しつつ、さらに聖書ナラティブの持つ文学的側面にも目を留めていく必要があるのである。

(続きは本誌で)

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