舟の右側
地引網出版
キリスト教雑誌 舟の右側

ワイチローの取材日誌

リバイバルジャパン取材日誌

神の喜びのための創造

更新日:2026年2月19日

舟の右側3月号を無事に下版しました。印刷の出来上がりは2月26日。今月号の特集は「祈りの力」で、とても素晴らしい記事が集まったと感じています。どうして人は祈るのか、祈らなければならないのか、そんな本質的なことも考えさせられました。

その中のチョ・ドリュー牧師(NCC東京)の記事の中に、次のような一節がありました。「ヨハネの黙示録5章8節と8章3-4節には、聖徒たちの祈りが神へのかぐわしい香りとして描かれている。それは神を喜ばせるものだ。」私たちの真実な祈りが、まるで芳醇な香りのように、神の心に満足と喜びを与えるということです。皆さんの好きな香りは何でしょうか?

またレビ記1章には、祭壇で献げられる羊や牛について「祭司はこれらすべてを祭壇の上で焼いて煙にする。これは全焼のささげ物、主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。」と書かれています。これは第一義的にはキリストの聖なるご生涯と十字架を予表し(エペソ5:2)、そして私たちの献身の人生もまた、神への芳ばしい香りとなることを示しているのでしょう。

これらのことを考えていて、「私たち人間は神の喜びのために創造された」という言葉が心に浮かんできました。人は何のために創られたのか、また存在しているのか、それは神の喜びのためであると。究極的な神主体の世界観ですが、やはりそれが聖書の真理であり、その世界観に私たちの思考を入れ替えるとき、すべてが神の秩序で動き始めるのだと思います。

呻きの中に「希望」を見る

更新日:2026年1月 5日

新年あけましておめでとうございます。

「希望」を見出しにくい時代です。そんな時代に輝くのがローマの信徒への手紙8章18節以降であろうかと思います。ここには被造物の呻き、キリスト者の呻き、そして霊(聖霊)の呻きが記されています。よく言われる「呻きの三重奏」ですね。

私たちは貧しさに呻き、心と体の病に呻き、人間関係のもつれに呻き、孤独に呻き、世界各地で戦争が止まないことに呻きます。しかしそんな呻きのうちに「希望」があることを、この聖書箇所は示してくれています。

「被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、そこには希望があります。それは、被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。」(ローマ8:20-21 聖書協会共同訳)

ふと思ったのは、言い方を変えれば、この世界には希望が満ちているということ。なぜなら、被造物全体の呻きに「希望」が内包されているから。キリスト者の希望については、次のような記述があります。

「被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、身体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。」(23、24節)

現に見ている希望は希望ではないとのみことばは、私たちの希望観とでも言うべきものを深く探ります。私の希望の射程は、どこにあるのか。何を希望として生きているのか。そんなことを問われました。

「霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。」(26節)

聖霊は呻きつつも、将来の新天新地に向けて私たちを整えてくださっています。そこに、御霊ご自身の希望があります。つまり私たちは、被造物の希望、聖霊の希望に包まれるようにして生きている。だから、呻きつつも希望を持つことができるのです。

この一年も、この究極的な希望に包まれながら、呻きつつも生きていきたいと願っています。

子として扱われる恵み

更新日:2025年12月23日

私の通う教会の礼拝説教で、キリストを信じた人に与えられる「神の子となる権能(特権)」(ヨハネ1・12)について語られた。父の懐にいる独り子の神が、その懐で愛の鼓動(heartbeat)を聴き、父の愛を私たちに伝えてくれたのだと。

家に戻り、自分はどれほど神の子とされた恵みを実感しているだろうと思いつつ聖書を開いた。一時期私は、神を「意地悪な方だ」とさえ思っていたから。するとヘブライ人への手紙12章に行き当たった。ここには父なる神の「鍛錬」の意味が詳しく記されている。「神は、あなたがたを子として扱っておられる」(7節)のだと。

心に光が差したのは、「子とされる恵み」があるのと同様に、「子として扱われる恵み」があるのだということ。鍛錬の目的については、「霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして」(10節)とある。私は今、きよめ派の教会に属しているわけだが、聖化のプロセスに神の鍛錬(訓練)は欠かせない。

この手紙の筆者は、「あなたがたはまだ、罪と闘って、血を流すまで抵抗したことがありません」(4節)と書く。神の鍛錬によって罪と闘い、決別し、聖さを得ていく。日本でもある時期「弟子訓練」がブームとなったが、それはなぜか「教会成長」のためだった。真の訓練は個々人の聖化を目的とし、日常の出来事にまつわるものであり、それは神が主導される。

私の生活の中で、父なる神はどのように鍛錬のプロセスを始めておられるのだろう。悲しいと思われること、不快だと感じること。それを「意地悪」と取らず、「子として扱われる恵み」として受け取っていきたい。

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